「鉄道オタク」「鉄道ファン」でいるのが嫌だ-鉄道如来のススメ-

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いつからか、恥じるようになった。

昔から、鉄道は好きであった。今でも好きだ。

それなのに、「鉄道オタク」であることも、「鉄道ファン」であることも辛い。

 

「鉄道オタク」という言葉は本来的には悪い意味の言葉ではないはずだ。しかし「オタク」という言葉がネガティブなイメージを持つものとすると、「鉄道オタク」は、いろいろな考え方があると思うが、鉄道会社の業務や第三者の日常生活を害する場面だと気づかないか意図的にそれと知ってあえて、自らの鉄道への愛のためにそれらの日常業務や生活を妨げる行動を繰り返し行う人々のことを指す場面もある。もちろんこうであってはならないと思うから、ここで定義した「鉄道オタク」に当てはまるという人はそうそういないであろう。

こうした「鉄道オタク」でありたくない以上、誤解を生む恐れもあるから、私はやはり「鉄道オタク」と自称したり、呼ばれたりすることはどのような文脈でも好きではない。

 

「鉄道ファン」とは何か。これも本来、ネガティブなイメージは持たないはずである。しかし私にとっては、「鉄道オタクではないと自称する」狭義の鉄道オタクの受け皿になっている単語のように思えてならない。「鉄道ファン」は、「鉄道オタク」のように趣味のためならば公共の利益を害してもいいという考えではなく、鉄道を趣味とする人々が自分の趣味を楽しむこと、もしくはそのコミュニティを指すことが一般的だろう。彼らは一定の根拠のもと、自らの意見を表明・議論することで趣味の社会に参画する。しかし最近、その議論の中で、好きありきの結論を導出する人々が、あまりに多いように感じる。確かに、彼らの一部は実証的な論理を重視しており、新聞記事や公式リリース、そして豊富な現場の知識を駆使して、自らの理論を説明している。しかし、よく彼らの議論を検証してみると、その根拠が自身の経験に基づいた鉄道大好きであるが故の歪な結論ありきになっている場合が多い。例えば、鉄道の廃止の議論の際、今の運営会社の体力ではとても鉄道を維持できない、首長が廃止を政治的な理由で容認しないでいるという場面で、マスコミは住民の味方になっている首長を批判するわけにはいかないから、運営会社の経営努力に期待するだろう。それではすでに路線の存廃の問題は解決しない状況に陥っているのも事実である。

 ここで「鉄道ファン」はある結論を持ち出す。「鉄道は残すべき」。なぜなら、鉄道はあった方がいいからだ。鉄道は昔から様々な人の「移動したい」という気持ちに答えてきた。昔は人々は移動が自由にできなかった。憲法に移動の自由が規定されているのは、そのような移動したいという思いが具体的権利となり、保証されているからだ。鉄道の存在はその現れではないか。今ある鉄道をなくしては、その保証はどこへ行くのか。

おかしい。なぜか。鉄道以外はどこに行ったのか。移動の自由の議論は百歩譲って、なぜそれを維持するために鉄道である必要があるのか、その前提が合理的でない。

 どうして前提を誤ってまで、合理的でない結論を見いたしたいのか。自分が鉄道が好きだからだ。

 同じ鉄道が好きなものの一人として、「今ある景色」を保存したい気持ちはわかる。しかし、その費用を負担するのはあくまでも自分である必要がある。鉄道ファンのみならず多くの利用者や税金として負担する国民全体がお金を出し合って、鉄道のネットワークは成り立っているから、「鉄道が好き」なので残さなければならないという主張は、その維持の主体を自分だけでない主体に求めている点で、無責任である。まして、「国が金を出せ」などという主張はもってのほかである。

こうした「鉄道ファン」でいることが、嫌だ。

 

では、一体僕らは「何」であるべきなのだろうか。

それを考え続けることが、鉄道への(尊敬)なのかもしれない。