乗り物はうつ病患者を癒す?-公共交通は希望か、絶望か-

 

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 鉄道を始め、公共の移動手段に共通する「動いている」という感覚は、私たちに何をもたらすのだろうか。

例えば、うつ病の知り合いは、「動き」を自分でなく誰かに委ねることで、少しの慰めを感じると言っていた。しかし、「慰め」に思えるこの感覚も、突き詰めると、むしろ刃物になって戻ってくるのではないかと考えている。一体心の拠り所はどこにあるのか。

 

 公共交通の特徴は、誰にでも開かれ、比較的安価にアクセスできることだ。それを利用し、外を眺めると景色が「流れ」、見えるものが移ろい、やがて見ず知らずの土地にたどり着く。何も考えずにボーッとしていることもあれば、何かを発見することもある。そんな公共交通について、かつて私も、自分が払う価値に対して、とんでもなく大きなものを得られているように感じ、充足感を得ていた。

そして、うつ病だった知り合いのしんどい気持ちも、乗っているだけで勝手に動くという感覚を得ることで、何もやる気の起きない場面で、幾分和らいだと言っていた。そのため、この感覚は多くの方が感じているもので、広く共感を得られるのではないか。すなわち、運送契約を結ぶ(=切符を買う/乗車船・搭乗する)理由として、「動く」感覚を得たいから。という方は一定数いるように私は思う。

 

 確かに、「動く」という感覚そのものを求めて運送契約を締結し、その効果として確かに「動く」感覚を得ているうちは、以上の法則が成り立つ。しかし、人間の求めているものは変わる。「動く」感覚を求める気持ちはやがて「動く」感覚を求める気持ちに応える主体それ自体を求めるのである。私を「動かしてくれる」存在こそが、自身の心理を安定させてくれる存在に他ならないからだ。しかしこのように考えが転換してしまうと、問題が生じる。ここで私たちにサービスを提供しているのは、組織という「想像の共同体」であり、誰ひとり自分の求めるものに答えてくれる存在がいないことに気がつくからだ。

 

 「想像の共同体」は、その共同体を想起する個人個人で「総有」しているのであり、「共有」しているのではない。営利を目的とする株式会社は有限責任社員しかおらず、誰ひとり最後まで責任を取る自然人は存在しないことになっている。そのような法人携帯の存在が許されているからこそ、大航海時代以降、社会も経済も発展してきた。

でも最後まで責任を取らない主体が存在する以上、何かが最後まで責任を取り、尻拭いする必要がある。例えば、株式会社の活動が不全に陥ったことで最後に責任を取るのは、社会全体、詰まり「誰か」である。このように自然人を特定せず、匿名の誰かに一般化して尻拭いをさせることで、社会の機能不全を吸収解消させているのである。

 

 話が脱線した。業者側に立って考えれば、運送契約を締結する目的は、その組織の金儲けと、「利用者たち」の利便の2点であることは想像に難くない。客はあくまで客である。業者にとって利用者個人は「利用者たち」が現実に現れているだけであり、その中身が誰であれ、「利用者のうちの誰か」に過ぎない。「動き」を求めていた自分がいつの間にか「動かしてくれる」主体を求める中で、こうして、矮小化された自分が出現する。「公」に投資して「公」のサービスを受けて、そこに「私」を見出すという作業は、そのテーゼ自体が失当であることに気づくのだ。

なぜなら「私」は「他」という個と対峙することで、初めて規定されるものであり、「公」は私を一般化して「公」に取り込むことによって、その「公」の中に自身は吸収・解消されているに過ぎない。「公」の中に個別の「私」はいないのだ。

 

 人はどこまでも慰めを求める。「動き」を求め続けても、タコが自分の足を食べるように、何も残らない。「動かす主体」を求めても、それが「公」という幻想に過ぎなかったと気づいてしまう。

 

公共交通を愛し続けた先に、最後に残るものは何か。